デリケートなセクシュアリティーの課題に向き合う

セクシュアリティー。ちょっと難しい言葉ですね。一般的には「性差」とか「性別」、あるいは「性」、「性欲」、「性愛」、少し拡大解釈をして「女性性、男性性」の統合あたりを指す言葉です。

 

実はこの部分は私たちの生命の根源ともいうべきところ。ところが一般的にはこの部分を口にするのは「恥ずかしいこと」、時に「いけないこと」とされ、なかなかオープンに語ることができないテーマだったりもします。

 

個人的にはここを外している限り、人としての営みが偏ったものになると感じているので、なんとか私なりにこの部分を統合していけたら、とは思うのですが。

 

さて、きょう突然浮かんできたのは、「私は汚くて恥ずかしい存在だ。この地球は汚くて恥ずかしい存在だ」という概念。なんのことだろう、と考えてみるとどうやらこれが私の「セクシュアリティー」に関する意識らしいことがわかったのです。この感覚はもしかしたら集合無意識ともつながるものかもしれません。

 

私たちは「セックス」のことをオープンにすべきではないとの考え方をもっていませんか。その意識を握りしめている限り、「セクシュアリティー」の闇はますます深くなり、その部分での犯罪行為が消えないこともあるのではないでしょうか。

 

隠そうとするから、のぞきたくなる。

ダメだ、といわれるから興味がそそられる。

 

そう、これもまちがいなく一つの「抑圧」の結果です。

 

「私は汚くて恥ずかしい存在だ」、もしもこれが集合無意識、集合想念につながるものだとしたら、私たちは本質的に自分を汚いもの、恥ずかしいもの、と認識してしまいます。もしも誰かがそれらを公言しようものなら、「何、恥ずかしいこと言ってるんだ」と徹底的にたたく行為が始まります。いわゆる「下半身ネタ」は下劣で恥ずかしいもの、との認識です。

 

実際には私たちには上半身もあれば下半身もある。どちらが上品でどちらが下品か、なんて考え方をすることの方が不自然。それなのに「下半身ネタ」は「恥ずかしいもの」「下品なもの」として捉えられている。ここにすでに認知の歪みがあらわれています。

 

セクシュアリティーの話題は別に恥ずかしいものではなく、当然いけないものでもなく、それなのにはじめから「恥ずかしい」というポジショニングにおかれていること自体が私たちの意識をフラフラさせてしまうのです。

 

となれば「グラウンディング」はむずかしい、そう、地に足ついた感覚が薄れやすくなってしまう。

 

まだまだ日本において「セクシュアリティー」についてオープンに話せる土壌はありません。けれどここを外して人間を語ることができないのも事実です。

 

のぞき趣味ではなく、人間の本質をみる意味で一人一人が少しずつでも意識的に「セクシュアリティー」について考えるようになったら、性犯罪も減っていくのではないでしょうか。差別の問題も緩和していくかもしれませんね。

 

とても難しいテーマのひとつ、ではあるけれど、同時にほんの少しずつ自分自身で統合していきたいテーマでもあり。

 

そのスタートが「私は汚くて恥ずかしい存在だ」という意識の統合、自分の中への受容だと。ハートに響くものがある場合は、あなたもこの感情を感じてみてはいかがでしょう。具体的に何かのシーンが浮かび上がってきたら、その時の感情を丁寧に感じつくすのです。良い、悪いのジャッジをせず。

 

私の中になぜこの概念が浮かんできたのか、と探ってみたら、どうやら私は小さい時、外出時におもらしをしたことがあるみたいでその時に感じた強い「恥」が浮かび上がってきたからのようです。私の場合、すでに両親が他界しているので確かなところはわからないのですが、たぶん、という範囲でも、感じられるようなら感じてしまおう、と。

 

壮大なテーマであるはずの「セクシュアリティー」が私の場合はおしっこ粗相につながっているらしい、という、なんとも「かわいらしい」結びつきなんですが、それでも幼い私にとっては死ぬほど恥ずかしいことだったのかもしれませんよね。

 

こんな風に自分の幼い感情を掘り起こすのは、自分自身への愛おしさが膨らむという点でも、ダイレクトに自己受容、自己肯定につながります。自己愛という愛のエネルギーが自分の中にチャージされるのです。

 

決して一生置き去りにしておいていい感情なんてありません。少しずつ少しずつ発掘していきましょう、自分の一見「負」の感情こそ。

 

 

 

 

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※ 追記  当エッセイの前のエッセイはこちらです

フロイトによる防衛機制(wikiページ)には自分に向き合うヒント満載

 

こちらも同テーマのエッセイです。 自分のドロッドロな闇を徹底的に受け容れる

 

Wikipediak を参考にしたところ、ギリシャ神話の「エロス」は恋心と性愛を司る神。受苦として起こる「愛」を意味する普通名詞が神格化されたものだ、とのこと。

 

これの対義語、がギリシャ語の「タナトス」。死そのものを神格化した神。つまり「死神」のこと。そして、これは心理学者・精神分析学者ジークムント・フロイトでの攻撃や自己破壊に傾向する死の欲動を意味する用語、独:Todestrieb(デストルドー参照)の同義とされるとのこと。

 

 

以下私の個人的解釈。

 

セクシュアリティーの課題は愛とつながり、その愛が絶望的なものとなったとき、人は自己破壊に向かう。セクシュアリティーの肯定は人生そのものだ、ということなのではないでしょうか。

 

セクシュアリティーを抑圧することによって起きる性犯罪はそもそもが自己破壊を意味している。他者の破壊ではなく自己の、破壊、そして自滅。 

 

 

 

 

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