性暴力被害者という立場からの解放 1

性暴力とはなんだろう。にわか勉強で調べてみた。

 

NPO法人全国女性シェルターネットというサイトには以下の記述があった(このサイトの存在すら私は知らなかった)。

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性暴力とは望まない、合意していない性的な行為すべてのことです。「性暴力」と、警察で扱う「性犯罪」とは必ずしも同じとは限りません。略

具体的行為として、

・性器の性器への挿入・性交行為、口や肛門への性器や指、物なのどの挿入行為
・性器や体を触る、脱がせる行為
・触ったり、覗いたり、性器を見せたり、いたずら電話やからかい、オンラインストーカー、性的な画像を見せる、裸や性行為の写真や動画などを同意なく撮る、ネットなどで拡散する、商品として販売する

などの行為もあります。

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また【百科事典マイペディア (コトバンク)】 には下記の記載がある。

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英語ではsexual violence,gender-based violence。男性中心社会における男女間の力関係の不均衡を不当に利用して,男性が女性に暴力をふるうこと。とくに女性の合意を得ずに,性的行為を行うことをいう。レイプ,セクシュアル・ハラスメント,幼女や障害者への虐待,家庭内暴力,ポルノグラフィー,強制売春(買売春)などの総称。

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こうしてみると「ハラスメント」という便利な言葉がその実像をぼやかすことに一役買っていることがわかる。さらに興味を引くのが以下の内容。

 

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ごく近年まで,男性の性暴力を仕方がないことと考える風潮が社会全体に根強く,法もまたそのような偏見に従っていた。その中では,〈男性の性欲は本能だからどうしてもはけ口を必要とするのだ〉とか,〈暴力をふるわれた女性の方に何かしらスキがあったはずだ〉などと,男性の性暴力を正当化するさまざまな説明が持ち出されてきた。【百科事典マイペディア (コトバンク)】

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これらから大前提としての、

・男性中心社会 (における男女間の力関係の不均衡を不当に利用)

・男性の性暴力を正当化するさまざまな説明が持ち出されてきた

上記二点の側面が浮かび上がる。

 

現在真っただ中にある芸能関連業界における「性暴力」報道は、男性による対男性への暴力がクローズ・アップされている。

 

男性からの女性に対する、あるいは逆の場合の「性暴力」、および「性暴力の告発」だったら大騒ぎになるはずのところ、「男性対男性(少年を含む)」ものであるためか、「日本には昔からそういう文化があった」「芸能の世界は元々そんな世界だ」「墓場までその事実をもっていこうとする輩が多いのだから必要以上に騒ぎ立てるな」など、男性中心社会特有の「男性擁護」「ひずみ」発想の発言も少なくないのが現状だ。

 

今まではそうだった、でももうそれは通用しない、という現実を受け容れられるかどうか、という段階にたどり着いたのではないか。逆の言い方をすれば、長く続いた「男性中心社会」によるひずみを多くの人が自分のこととして理解し、そのひずみをたてなおし、均衡を図るための最大のチャンスが今あらわれはじめているということだろう。

 

男色、衆道、などの言葉を私はこの騒動によってはじめて知った。その根底にあるのは「女性忌避」「女性蔑視」の側面だ。その実、根底に男性からの女性への強い「畏怖」「憧憬」「嫉妬」も隠されている。厳密に言うのなら、「男性性、男性原理」からの「女性性、女性原理」に対する意識だろうが、私たちの意識は必ずと言えるほど極性をもつ二面性によって成立しているものだから。それをどうしても認められなくて「女性は絶対的に男性に劣る、しかも穢れた存在だ」というネガティブな「偶像」を権力をふりかざしたい男性エネルギーが創り上げてしまった、それを女性エネルギーも受け容れてしまったのではないか。

 

その意識は私の中にもある。あった、か。

 

この地球、この世界に「国」「支配」「権力」という意識が発生して以来「男性社会」「男系継承」「父権社会」などの概念が絶対的事実として設定された。もちろんそれでうまくいった時代もあった。それがなければ「今」、もなかった。

 

現在そのひずみが「膿」のようにあふれ出している。それこそが母なる概念、私たちのいのちのソースとなる意識エネルギーによる「昇華・均衡」システムの現象化だということが、さまざまな報道が出て来てやっとみえてくる。

 

マスコミが終わったと叫ぶのは簡単だ。一方でマスコミの報道のその奥に何を感じるか読み取るか、そんな楽しみが隠されていることも事実だろう。そもそも「ニュース」なんて、100%の事実を伝えるほどの器は携えていない、私たち人間と同じように。

 

逆の言い方をすれば宇宙は「無限」の可能性を秘めている、私たち自身も。ほんの少しの事実に気づいたからと言って自分が「知ってしまった」とするのは自分で自分の可能性の枠を決めてしまったのと同じで、もったいない。まだまだ「入口」をのぞいただけ。

 

私は社会人になってからずっとマスコミの端っこに身を置き続けてきた。報道畑の経験はない。そんな中でこの封建的な世界の「芯」が何だったのか、今、やっと少しみえはじめてきた。マスコミ業界そのものがハラスメント業界のようなものだ。常に一見「弱者」があたりまえのように痛めつけられる。私が「権力側」に入ることは一度もなかった。

 

それは私がなんの後ろ盾もない女性だった、ということが大きい。同時に私自身が自分をそう設定して生き方を決めてきた、潜在意識での決定。

 

男性だから。女性だから。その区切りはもういらない。いえ、肉体的区別や棲み分けが確実に必要なシーンは出てくる。ただし優劣や対立や差別、排除はいらない、私たちはすべて女性性、男性性、いずれもを携えたいのち。均衡、バランス、受容。

 

自分の意識を根本的に変えるのが一番のヒーリング。そのヒーリングは自分がみている世界そのものを癒す。

 

解放。

 

あえて「大」フレーム意識での執筆。「木をみて森をみない」世界観も男性中心社会に生きてきた私たちの柱だと気づいた。

 

 

 

 

※ 参考 【NPO法人全国女性シェルターネット】リンク設定がうまくいかない ↓

https://nwsnet.or.jp/ja/dv-toha/sexual-violenvce-sexual-assault.html

 

 

 

 

 

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