『宗教の信仰背景でも虐待は許されない』~ 岸田首相に託されたメッセージとは ?

『信仰が背景にあっても虐待許されずと首相』

 

共同通信が報じた衆院予算委での岸田首相の発言。

 

以下詳細。

 

『岸田首相は衆院予算委で、宗教団体「エホバの証人」を巡る虐待問題について「宗教や信仰の背景があったとしても、決して許されるものではない」と述べた。』

 

この記事のタイトルをみた瞬間、これはすべての宗教、信仰に共通するものなのでは ?  ということが浮かんできた。

 

岸田首相に対するネガティブ・キャンペーンは熾烈を極めている。国民のほとんどが「メディア、マスコミは信用ならん」と言いながら、一方でその論調に巻き込まれているのが実情ではないだろうか。

 

私は岸田首相信奉者ではない、同時にアンチでもない。また右でも左でも、ない。

 

ただ、岸田首相だからこそ世の中が変わって来ていることは感じている。

 

□ 旧統一教会問題

□ 旧ジャニーズの問題

□ オリンピックの電博談合問題その他利権問題

□ ビッグモーター (公明党利権)  問題

□ 宝塚、歌舞伎の世界の問題

 

その他細かい動きも拾えば相当の変化だ。

 

逆に言えばこれらはかつて安倍元首相がその根幹に存在し、それらの問題が決して浮上しないようにさまざまな工夫がなされてきたと言われていることばかり。

 

そういう意味では安倍元首相が亡くなって、この国の風向きが完全に変わっていると捉えてもいいのかもしれない。

  

余談だろうか、2023年11月12日の「長周新聞」にはこんな記事が掲載されている。『大将失った安倍派の瓦解 長門でも下関でも顕在化 長門市長選では内部分裂【本紙記者座談会】』

 

こうした実情の中で「自民党」、と一括りにしてしかもそのリーダーである岸田首相を徹底的に批判することの意味をメディアはどう捉えているのか。そこから私たちは何を読み取ればいいのか。

 

前置きが長くなった。

 

上記を踏まえ、私自身は岸田首相の言葉に多次元からのメッセージを感じ取った。 

 

『信仰が背景にあっても虐待許されず』

 

この場合は「エホバの証人」限定の言葉として発せられている。実のところこれはすべての宗教や信仰において「虐待は決してあってはならない」という意味ではないだろうか。

 

宗教的虐待。子供や女性の性の搾取、性虐待を含めてさまざまな虐待行為、「人身御供は許されないものだ」、と。

 

『人身御供(ひとみごくう)とは、人間を神への生贄とすること。人身供犠(じんしんくぎ/じんしんきょうぎ)とも。また、生贄の「贄(ニエ)」は神や帝に捧げる鳥・魚・新穀などの食物の意味である。転じて比喩的表現として、権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている。 ( Wikipedia より抜粋 )』

 

特に後半のこの部分、『権力者など強者に対して通常の方法ではやってもらえないようなことを依頼するため、もしくは何らかの大きな見返りを得るために、理不尽にもかかわらずその犠牲になることに対しても使われている』、この内容をみて私はまさに旧ジャニーズの「男色文化に裏付けられた性搾取、性虐待」を思い浮かべた。

 

旧ジャニーズに限らない。芸能界にも限らない。

 

さまざまな社会、業界で、これらのことが「信仰」のひとつとして許されてきた、というこの国の歴史を自分自身のこととして受け容れなければ、いま起きている「旧ジャニーズ」の問題も机上の空論で終わってしまうだろう。

 

世界においても同じこと。

 

カトリック圏などでの聖職者の性犯罪や虐待行為はすでに公に断罪されている。

 

そういう流れを無視はできない、いやむしろその流れは確固たるものになっている。

 

それが冒頭の「宗教や信仰の背景があったとしても、決して許されるものではない」という岸田首相の言葉の真意なのではないだろうか。

 

その昔、日本にまだ日本という名前がついていなかった頃、時代で言うのなら縄文時代前・中期くらいだろうか、そこにはシャーマンとしての能力がある「女将軍」がいて村にもならない家族的小集団を取りまとめていたらしい。決して他集団を干渉せず、自分たちも他集団の干渉を受けず。

 

「女将軍」は自分自身が「神・カミ」とされる存在とつながる能力をもっていた。そのことから当時は人身御供という概念はなかったのではないか、というのが私の考えだ。

 

政教分離で男性の将軍が政を、女性のシャーマンが祭りを司るといういわば分業の時代になって「生贄」「人身御供」という発想が生まれたのではないかと私はそう、感じている。

 

本来の「平和」という概念さえなかった「平和そのもの」だった世界への回帰。それは昔のまま、ではなく、男性社会を経験したからこその女性性、男性性のバランスのとれたより「女性的な社会」の構築、創造の中にみられるものではないだろうか。

 

岸田首相はその扉を開くためのお役割を携えているんじゃないかと、あくまでも個人的に。

 

もしもそうだとしたら、岸田首相の口から発せられる言葉を奥行をもって俯瞰しながら読み解くことが私たち国民一人ひとりに与えられた課題でありチャンスなのかもしれない。

 

そのためにも自分自身の意識に奥行をもたせて。まだまだ途上なので時にはかなり浅くなることも受け容れながら。

 

自分自身の意識が自分の住む世界を創っている。

 

私はまもなく日本の宗教界、安倍元首相の活動を支えたと言われている「日本会議」の均衡化が図られる前兆を感じている。

 

ここまで書いたらYahoo!に『池田大作氏死去で宗教界に禁断メスが入る可能性…連立解消論浮上の自公"崩壊ドミノ"で彼らが最も恐れること』のタイトルが浮かび上がっていたことに気づく。

 

宗教界。日本の場合、スピリチュアル業界も含まれるのかもしれない。

 

なぜなら、日本のスピリチュアルの大元はひとつの宗教につながっているということが解明されつつあるという説があるから。

 

私は宗教にハマッたことはない。スピリチュアルには10年くらいドハマりし、数年前に卒業したという経緯がある。

 

ということは10年くらいは間接的にある宗教の信者だったと捉えられるということか。

 

無意識のうちに「信者」にさせられていた ? その実は自分自身がそう選択していたのだけれど。

 

そんなステルス布教の実態も浮上する日がくるのではないだろうか。

 

なぜなら、もう本物の時代、本音の時代だから。

 

すくなくとも私の創造する世界では、というお話。

 

 

 

 

※ さまざまな業界の仕切り直し、再生の風潮の中で「内部分裂」「内部崩壊」がキーワードだと感じています。

 

 

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